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吉田 政美(よしだ まさみ、本名:吉田 正美〔1976年3月出版のさだまさし著『本 人の縁とは不思議なもので…』において、さだは吉田の名前を「吉田政美」と紹介している。したがって本名が政美であって正美は芸名であった可能性も高い。〕、1952年9月29日 - )は東京都出身のシンガーソングライター、プロデューサー、ファンやさだまさしには「まちゃみ」の愛称で親しまれている。 == グレープ結成 == 吉田正美(現・政美)とさだまさし二人は1969年、当時高校2年生のときに共通の友人の紹介で知り合った。当時さだはアマチュア・バンド「フライング・ファンタジー」のリーダーであり、吉田はアマチュア・バンド「レディ・バーズ」のリーダーであった〔2つのバンドはどちらもエレキ・バンドであった。「グレープが目指していた音楽は元来ロックであった」というさだの談が理解されるところである。〕。翌1970年の春にさだ、吉田ともうひとりのメンバー3人でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト(現ヤマハポピュラーソングコンテスト)に応募するが予選落ちしている。吉田とさだはその後も他にメンバーを集めてバンド活動を行っているが、プロになることは考えていなかったという。さだは國學院高等学校を卒業後、國學院大學・法学部に入学する。 高校卒業後、吉田は大学に入学するもすぐに退学し、セミ・プロのバンドに入る。さだはキャバレー回りのバンドであったためこの入団に反対したが、反対を振り切って入団している。さだは吉田がいわゆる音楽極道(ゴロ)になっていくのではないかと心配し留守宅を覗きに行くなどしていた。しかしさだは大学にはほとんど行かず数々のアルバイトをしながらアマチュア・バンド活動の生活を送り、肝炎を患ったことをきっかけに1972年10月初旬長崎に帰郷し大学を中退した。さだが「東京で録音したデモ・テープを長崎に送ってほしい」と吉田に手紙を出したことで、吉田はさだが長崎にいることを知る。吉田はバンド生活に嫌気がさしていたため仕事を無断退職して、失踪状態で長崎にやって来た。そのためさだは吉田を叱責して東京に帰るよう諭すつもりでいたが、彼の姿を見て咄嗟に「おい! よく来たなあ」と言ってしまったため叱責することが出来なくなったという。以後二人は意気投合し同年11月3日、デュオバンド・を結成する。ただし、実情は「とりあえず」二人だけでやるという結成であった。コンサートの開催を考えコンサートの興業団体に掛け合うが、いずれの団体とも話はつかず、結局はファースト・コンサートを自主開催することとなった。コンサート開催に際してグループ名が必要になったため、吉田政美が楽譜のトレード・マークにしていた"Grape"でどうかとさだに提案。さだは「ああ、そうしよう」と答え、1分でグループ名が決まったという。のちに「グレープ」の名で全国に知られるようになるが、さだはデュオの正式表記は"Grape"であるとしている。 初めてのコンサートを前にグレープは、島原市の著名人でさだの父親の友人でもあった宮崎康平を訪ねた。その際グレープは宮崎に後、『わすれもの』に収録される歌「紫陽花の詩」を披露している。これを聴いた宮崎は「これは面白い。このような歌は今まで聴いたことがない。」と感心し、長崎新聞社の学芸部・宮川密義に紹介する。宮川は二人を面接して歌を聴きヒット性を予見、長崎新聞のヤング欄に写真入りでグレープを紹介した。しかし11月25日、NBCビデオホールにおける初めてのコンサートは定員304席のところ250人程度のしか聴衆が集まらず、さだの弟の繁理が通りすがりの人を無理にでも引き込むようなこともあったという(さだはこのことをして「キャバレー方式」と呼んだ。)。このファースト・コンサートに長崎放送ラジオのディレクターが臨席したことからラジオ出演へとつながる。宮崎康平はグレープを長崎放送テレビにも紹介し、グレープはローカル番組「テレビ・ニュータウン」のレギュラーに起用される。やがて音楽プロデューサー川又明博によってスカウトされ、1973年10月25日、ザ・バードコーポレーションを所属事務所として「雪の朝」でワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)より全国デビューした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田政美」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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